伊予松山城を訪ねる(第733回例会)
現地集合現地解散です。
●日時
令和6年11月3日 午前9時 雨天決行(行程変更あり)
●集合場所
松山城ロープウェイ東雲口駅舎前
弁当・飲物・敷物・帽子・ハイキング靴・ステッキ・タオル・雨具持参でお願いします。
マスクの着用は各自の判断でお願いいたします。
●行程
松山東雲高校(東曲輪) → ロープウェイ → 長者ヶ平 →
筒井門 → 太鼓門 → 松山城本壇(天守) → 紫竹門 →
乾門 → 本丸茶店付近(昼食) → 大手門跡 → 黒門口登城道 →
二の丸史跡庭園ほか → 規門 → 栂門 → 黒門 →
南側登り石垣 → 三の丸東門跡 → 市役所前 → 市内電車 →
道後公園 → 湯築城(城内見学と湯築城資料館) →
道後公園前(16時頃解散)
●参加費
賛助会員・正会員・家族会員 800円
通信会員・当日参加者 1000円
(資料代・保険代・記念写真代・下見費用として)
●見どころ
【松山城】
勝山山頂に本丸、西山麓に二の丸と三の丸を配置した連郭式平山城で、
本丸の中枢である本壇には現存する連立式天守が聳える広大な城構えとなっている。
賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた加藤嘉明が、慶長7年(1602)から
築城を開始して松前城(正木城)から居城を移してこの地を松山と命名した。
嘉明は城の完成を見ることなく寛永4年(1627)に会津若松へ移封となり、
入れ替わって蒲生忠知が城主となり二の丸を完成させた。
松山城築城は実に25年の歳月をかけた大工事であった。
寛永11年(1634)に蒲生忠知が死去して嗣子なく蒲生氏は断絶。
翌年に伊勢桑名から松平(久松)定行が15万石を領して入封以後、
松平氏が15代234年に亘ってこの地を領し明治を迎えた。
【湯築城】湯築城は、中世の伊予国守護であった河野氏が南北朝時代から
戦国時代まで約250年間に亘って居城としていた。
戦国時代の天正13年(1585)に豊臣秀吉による四国攻めが開始されると、
秀吉の命により小早川隆景が湯築城を攻め、
河野氏最後の当主河野伊予守通直は降伏して湯築城を明け渡して、
平安時代末期から実に400年に亘る河野氏の伊予支配が終わった。